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とある男子高校生の日本深憂日記

日本を愛する男子高校生が嘆き続けるブログ。

日本 ── 血統主義と出生地主義

 

Twitterを見ていると、様々な意見がタイムラインを流れます。

 

不意に、国会議員の立候補条件に3世代に渡る帰化条項を付け加えるべきだ、との意見を見ました。

 

その時私が思ったのは、「それって保守なのだろうか?」ということでした。

 

私は安易に出生地主義を信奉するつもりはありません。もし中国を熱烈に愛していて、日本を憎んでいる中国人がいるとして、その中国人が例え日本で生まれたとしても、日本人でもある、と認めるのは違和感を禁じえません(もちろん、日本で生まれ、先祖代々日本列島に住んでいる人にも、日本を憎んでいるらしい人もいますが)。

 

かといって血統主義を信奉するつもりにもなれないのです。日本人の形成に、実際のところ、日本人の特有性を見出すのは困難です。

 

日本人の中に縄文人弥生人が混在していることは比較的理解されたことなんだろうと思いますが、実際には、国が成立した後の中国や朝鮮からも人がやってきたわけですから、かなり複雑な形で混血が進んでいることは明白だと思います。

 

だから、日本人のアイデンティティを血統に求めるのは、実際無意味だし、そんな血統なんて、はなから存在しないと考えたほうが良いと思うのです。

 

ここで考えられる、日本人のアイデンティティを求める方法は2つではないでしょうか?

 

  1. 日本を愛する人を全員日本人と認める
  2. 日本国籍を持つ人間を日本人と認める

 

私は前者でもいいですが、違和感を禁じえないところではあります。

 

そこで2ですが、日本は血統主義だから結局血統主義なんじゃないか! との批判も甘んじて受け入れます。

 

もっと言うと、もう、日本に帰化した人であっても、日本国籍を持つならば日本人であると考えるということです。

 

だから帰化条項で何世かにこだわることになんて、意味はないと思うんです。

太平洋戦争の開戦

 

当時は世界経済が不況の中で、ニューディール政策ブロック経済によってそれを乗り切ろうという中で、日本は公共事業を起こせる十分な財力や、閉鎖的経済圏を構築できるような植民地を持ち合わせてはいなかった。

 

その結果、軍部の増長を招き(無論軍部の大部分は大陸進出が不況打開の切り札になると思っていただろう)、諸外国からの石油輸出禁止がこれに追い打ちをかけて、石油を目的として東南アジアへの進出を余儀なくされた。

 

その背景に、欧米に蹂躙され続けたアジアを日本が解放するという大東亜共栄圏的思想が全く無かったかと言えばそうではなく、アジアの連帯を日本が率いていくという強い使命感があったことは事実である。

 

その中で日本は、殊に経済的事情を理由に、アジアの国々を勢力下に置くことを選び、太平洋戦争を宣戦布告せんとし、それと同時に真珠湾を攻撃し太平洋艦隊を壊滅させ、得た猶予の中で東南アジアの石油を獲得するつもりであったが、手違いのために宣戦布告が遅れた。このことは多くの明治武士道の信奉者に衝撃を与えたことは容易に想像できる。

 

 

したがって太平洋戦争は、経済的困窮から国民を救うことに端を発した自衛のための侵略戦争であったと考える。

 

また、当時の国際情勢や国内情勢を鑑みても、開戦は概ね避けられず、かつ、開戦したことは間違いでは無かったと考える。

天皇陛下の御譲位と憲法改正

 

天皇陛下のお気持ちが公表され、暗に譲位に対する期待を滲ませる内容が明らかとなりました。

 

その解釈の中で、「摂政を置くという手もあると表明された!」と喜んでいる右翼もいますが、どう読んでも、天皇陛下のお気持ちの中では、摂政を置くことには好意的では無いようでした。

 

天皇陛下憲法の〝象徴天皇〟について非常に重視なさっていて、摂政を置いても、象徴としての天皇がその職務を十分に果たせないままに崩御するということへの違和感を感じていらっしゃる様子でした。

 

これ以外の点からも、やはり御譲位の意向であるということは確実であると思われます。

 

そうなると方法としては、大きく2つが叫ばれますね。

 

  1. 皇室典範の改正
  2. 特別法の制定

 

特に、皇室典範の書き換えによって、権力によって譲位が強いられるようになったり、天皇自身が譲位によって政治的影響力を恣意的に行使したりすることへの恐れが、特別法の制定という案を生んでいると思われます。

 

 

個人的な考え

私自身としては、皇室典範を改正すべきだと思います。

 

と言うのも、今回、日本国憲法における象徴天皇制の重大な欠陥が明らかになったのです。

 

それは権威としての天皇ではなく、象徴としての天皇は、何もしないのではいけないということです。

 

権威としての天皇であれば、他の人々からの上奏を聞いてそれに判を押すだけで政治は回るかもしれません。特に室町時代後期のいわゆる戦国時代には、天皇は権威であり、特に政治は行っていませんでした。

 

象徴としての天皇は、政治は行いませんが、いるだけではいけません。

 

丸山眞男さんの「『である』ことと『する』こと」を引用するまでもなく、象徴としての天皇は、『する』ことなのです。

 

この点から、年齢を重ねれば、十分に天皇を「する」ことができないというのは考えられます。

 

市井の人間には定年制があります。なのに天皇にはない。天皇に定年を設けろ! と言うつもりはありませんが、やはり心身の限界というものはあるでしょうし、これまで懸命に努めていらっしゃった陛下に、ささやかながらに安楽のひと時をお過ごしいただきたいと思います。

 

しかし特別法制定派の言い分もわからないでもないのです。この先何百年もして、今回書き換えた皇室典範が悪用されないとも限りませんから。

 

ですから私自身は、憲法の改正によってこの問題を克服すべきであると考えます。

 

憲法に次のような文章を加えてはどうでしょうか?

 

天皇及び天皇家と皇族の運営と存続に関する一切の権限は、天皇のみがこれを有する。

天皇は、国民の支持の無い場合において、この権限を行使することを認められない。

 

これであれば皇室典範改正によって起こりうる問題を、より上位にある憲法によって解決できると思います。

 

本来であれば、皇室典範皇族会議によって国会に提案するような特殊な形の法律にしてはどうかと思うところですが、おそらく支持は集められないでしょう。

憲法9条のはなし

   第二章 戦争の放棄

第九条  日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
○2  前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

 

日本国憲法第9条を引用するとこうなります。

 

この中で解釈を面倒臭くしているのは芦田修正と呼ばれるらしいものです。

 

 憲法9条の成立過程との関連で避けて通ることのできないのが、いわゆる芦田修正といわれているものです。

 ポイントは2点。1点目は1項冒頭に「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し」の文言を、2点目は2項の最初に「前項の目的を達するため」をそれぞれ追加したことです。この芦田修正によって、現在の9条が完成しました。

(【中高生のための国民の憲法講座】第19講 憲法9条 芦田修正が行われた理由 西修先生 - 産経ニュース)

 

一般的に、この芦田均氏の修正は、遠くない未来に自前の軍隊を持つときのための動機作りという風に捉えられます。

 

これは裏を返せば、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求するために必要ならば軍隊を持ちうるという余白を作ったということになります。

 

しかし冷静に考えてみれば、これ自体、憲法の行間を読んだものに過ぎず(そのことを解釈と呼ぶわけですが)、憲法の精神と言ったって、それは我々が「こういうことらしい」という風に推察しているに過ぎないのです。

 

安倍政権になり、解釈改憲が行われ、安保関連法が成立しました。これについて、私は反対でした。

 

わざわざ「アベ政治を許さない」みたいな紙を持って運動する気にはなりませんが、私は、本当の意味での憲法改正が遠ざかってしまう気がして仕方がなかったのです。

 

そしてそれは概ね間違っていなかったようで、国民の中でもじっくりと高まりつつあった9条改正の機運が落ち込んでしまった様子です。

 

私は、そんなことなら、「国民の生存権を守るための自衛としての戦闘以外は一切を認めない」とはっきり書けばよろしい。なんなら一緒に解釈の余地がないように、注釈書のようなものを作って、憲法に付随して公布すればいい。解釈を変更するには改憲並みの手続きが必要なようにすれば良い。

 

むしろ自分は、将来共産党のような極左政党の煽りに屈して、国民が極左政党を選んでしまった時に、解釈改憲自衛隊を放棄するようなことにならないか心配です。

 

もしそうなれば日本は攻撃され放題。日本国民全員が殺されるか、奴隷にされるまで待つしかないということになるでしょう。

 

ですから私は早急な憲法改正を望みます。

保守50連弾(5)「行政改革」

 

私が行政改革と聞いてみてやりたいことは、それほど多くありません。

 

  1. 日本型省庁制のあり方を模索
  2. 一般人大臣の任用
  3. 大臣任期の傾向的延長

 

3つ! しかありませんでした。

 

日本型省庁制のあり方を模索

日本では行政改革を謳って、省庁合併が繰り返されてきました。その結果、このへんちくりんな行政体制が完成しました。

 

文部科学省は、教育、スポーツ、文化保全……トップアスリートを育成する部署と、幼稚園を管理する部署の長が同じ。

 

いや皆さん、落ち着いて考えて見てくださいよ。トップアスリート育成にもくんしく、詳しく、かつ、初等教育から高等教育、果ては生涯教育に詳しい上に、文化保全にも見識の深い人……そんな人いますか?

 

前の文部科学大臣は下村さんだったと記憶していますが、学習塾の経営者だったことがおありになるようですから、おそらくある程度は教育に詳しいんでしょう。一方で、そんな下村さんがトップアスリート育成を担う、というのは不安ではないですか?

 

スポーツ庁を作れば解決される、だとか、そんな風に仰る方がいるかも知れない。それは間違いなく本当のことです。

 

しかし、大臣を置いて、きちんとやって行く姿勢を示すためには、使い古された「庁」なんていう方法ではなくて、「省」という方法を取るべきではないでしょうか?

 

つまりその方針を守りながら、一方ではコストをカットするという面で、省独自の職務に関わる以外の事務方は合同で担おうというわけです。

 

これは今後も事あるごとに言うでしょうから、覚えていてください。

 

欧米ではこうしているだとか、そんなことを言わずに、日本のあり方を創造していかなくてはならない

 

のです。

 

 

一般人大臣の任用

先ほども、スポーツ、教育、文化保全を一手に引き受ける文部科学省を例に、そんなことって可能? という話をしました。

 

例えば文部科学省が職務ごとに分類されたとして(ここではスポーツ省、教育省、文化省を想定)、例えば学習塾経営者だった経歴を持つ下村博文さんは教育省大臣にぴったり、ということになります。

 

では文化大臣は? スポーツ大臣は? と考えると、大臣として資格のある人間は国会議員なんかじゃない気もしますね。

 

ここで出てくるのが、つまり民間人閣僚です。

 

自分は少なくとも日本では、政治に政党色が着いて行われるべきだと思います。その中で、今も実は各政党はシャドーキャビネットというものを用意していることが多いのです。

 

これは影の内閣や次の内閣と呼ばれることもありますが、あまり存在は認知されていません。これをきちんと整備して、その中に民間人も入れましょう。

 

そうすれば、閣内に民間人が多すぎると民主制に逆らっているのではないか、との意見は十分に交わすことができます。

 

端的に言えば、官僚はその分野のスペシャリストであるのに、その長たる大臣がズブの素人では、政治主導だの官僚政治からの脱却だの、そんなことは妄言としてしか響かないのです。

 

 

大臣任期の傾向的延長

これは自分も、なんと日本語で形容してよいものか、悩みました。言いたいことは難しい今年じゃないんです。

 

大臣、すぐ変わりすぎじゃないですか?

 

と、これだけ。

 

いくつか方法はありますね。

 

例えば、民間人閣僚が増えれば、比較的任期は伸びるかも知れない。

 

或いは、大臣の諮問機関として国会議員のグループを作れば、大臣が代わっても、安定した政治運営が可能かも知れない。

 

ただ、支持率を上げるためだけに時々閣僚を交代して、女性をとりあえず入れてみたりして、そんなことでやはり官僚政治にしがみつかれるのは、なんとも馬鹿らしい気がします。

 

 

 

本当はものすごく行政改革については言いたいことがある気がするのですが、目下気になるのはこれくらいです。

 

もし機会があれば、財政問題の折にでもプロジェクト委員会制度試案や、伴って任意寄付金型納税制度試案なんかについても、お話しする機会があればと思います。

保守50連弾(4)「治安対策」

 

タイトルに「治安対策」なんていう大仰なものを持ってきてしまいましたが──

 

(保守50連弾のテーマは、読売新聞が行った高校生へのアンケートから拝借したものです)

 

──実は別に「国際テロ対策」という項目もあって、本当に、この項目で何が日本で問題なのかがわかりません。

 

というわけで今回は、他の項目に当てはまるべきであろう諸般の事情についての意見を軽く、広く書くということにしたいと思います。

 

 

少年犯罪と犯罪予防

少年犯罪が増えているのは──だとか、自然に言う人がいます。これに対する反論も、〝少年犯罪〟と画像検索して頂ければ、いくらでもグラフが出てきますから、どうぞそちらを参照してください。

 

少年犯罪が増えたように、或いは凶悪犯罪が増えたように感じるのは、マスメディアがワイドショー化する中で、そういった犯罪がセンセーショナルに取り上げられることで印象が大きくなる。この印象の大きさが、頭の中で犯罪件数の大きさと置き換えられている、そう考えるのがおそらく一般的で、本当のところでしょう。

 

だから本当に必要なものの考え方は、〝犯罪が増えている気がする。大変だ!〟と騒ぐことではなく〝より安全な国にするためにいかに犯罪を予防するか〟ということになるんだろうと思います。

 

もしかすると今後、書くことができる機会があると思いますが、間違いなく日本は今後、行政サービスの円滑化や防犯対策の中で、緩やかな管理国家になって行きます。

 

マイナンバーは国に管理されるようで嫌だ、と言うような人もいますが、実際のところ、この流れは止まりようがありません。おそらく口座情報から位置情報、健康に関する情報も含めて、国が一元的に管理する時代が来るでしょう。

 

それは我々が夜警国家を捨て、福祉国家へと舵を切った時から半分決まっていたことで、国民の生活を保障することになった国家が、国民そのものを管理してしまった方が効率的、と言うのは実はそれほど難しい論理ではありません。

 

ならば開き直って、それを存分に活かしてやれ──こういう風に考えを転回させるのはどうでしょうか?

 

駅の改札のようなものをいたるところに作り、道路を通り抜けるには、その改札に自分のマイナンバーカードをタッチしなくてはいけない。

 

車に乗るにもマイナンバーカードを挿入しなくてはエンジンがかからない。

 

こういうように、国民の位置情報を完全にコントロールできるようにして仕舞えば、犯罪が起きた途端容疑者が絞り込まれ、未解決事件の件数も減るでしょう。

 

もちろんこれは自分にとっての理想であり、かなり過激な意見だと思いますが、実際のところ、フリーダムとセキュリティという考え方は、セキュリティがフリーダムなものでない限り、矛盾し続けるのです。

 

 

死刑は抑止力たり得るか

かなり〝治安対策〟というところから逸している気もしますが、死刑、と言うことにも話を進めてみましょう。

 

私は法理の専門家ではありませんから、素人考えで申し上げるしかないわけですが、私自身は死刑に抑止力はないと考えています。

 

そもそも人を殺そう、などという大仰な決断をする人が、「この人を殺してしまったら私が死刑になるかもしれない」なんて思うでしょうか?

 

私は思わないと思います。そんな人間は、死刑制度がなくたって、凶器を持って殺したい人間の前に立てば殺すのに怯えてしまうのに違いないのです。

 

では死刑制度は不要か? と聞かれれば、死刑制度は存続すべきであると思います。

 

私は素人考えでいつも2つの理由を言います。

 

1.被害者遺族への形式的償い

被害者遺族が「あんなやつ死刑に」と言うことがあります。それで精神的苦痛が和らぐのならば、絶対的悪たる犯罪者を死刑にし得ると考えます。

 

2.更生し得ない犯罪者の扶養の拒否

 死刑の代わりに終身刑を導入したとすると、国家は、極悪人の面倒を死ぬまで見ることになります。そんなことあって良いのか。それであれば、自らの罪を認めながら、それでいて更生の余地の無い者は、国家がその扶養を拒否するべきだと考えます。

 

これは全く法理に則ったものではありませんが、私自身はこのように思います。

 

というかこの問題は、殺人犯を罰したところで死人は蘇らないのに、なぜ殺人犯を罰するのか、という観点に立って、刑罰について議論してみないことには、確実な答えは出ないんだろうと思います。

 

犯罪抑止としての治安維持

日本の犯罪件数は非常に高い上に、その検挙率の高さから、一見優秀かのように思われます。果たして優秀かと言われれば、検挙しても裁判で勝ち得ないようなケースはそもそも検挙をしないと言うようなこともあるようですから、微妙なラインです。

 

さらに日本人は気質として、そのほとんどが武器を持たざる百姓だったわけですし、革命を起こしたことが無い──武器を持ったことが無い民族ですから、非常に武器を使ったような犯罪は起きにくい。

 

だから、包丁やナイフで何人もを襲うような通り魔的犯行はあっても、銃を持って、それで何にもを殺すような犯罪は、思想的背景がなければ起きづらい(当然、銃の入手が困難であるとも挙げられます)。

 

そのことからか、日本の犯罪予防や治安維持、テロ対策への感心は極めて低い。

 

この程度の意識で、もし大陸の真ん中に日本があったならば、日本はテロによってめちゃくちゃになっていたでしょう(もし大陸の真ん中にあったら、こんなのほほんとした雰囲気にはならなかったんでしょうが)。

 

でもこれからはボーダーレスにテロルがやってくる時代です。或いはインターネットなどを通してあらゆる思想の影響を受け、テロリストになってしまった人、というのも現れかねない。そのとき我々は、国境を封鎖するだとかそういうことではなく、国民全員の思想を調査しなければテロリストの存在を防げなくなる。

 

それの意味するところは、不可能、ということです。

 

ものすごく教科書通りの、概念的なことを言えば、何よりテロリズムを拒否する上で大切なのは、人々がテロルを適切に警戒するということでは無いかと思います。

 

そして、武力では自分たちの望みを叶えるに足らないということをよく理解する、それも大切でしょう。

 

(それが平和を実現するための戦争放棄に繋がるわけではありません)

保守50連弾(3)「貧困問題」

 

基本的にまず申し上げておきたいのは、私が資本主義を信奉する者だ、ということです。

 

貧困という議題を扱う上で、それを語る人間が資本主義と共産主義社会主義の一体どちらにシンパシーを感じているかということは非常に大切になります。

 

共産主義社会主義の目指すところは万民の平等ですから、その中で社会に貧困層がいることは好ましくありません。それを強く是正しようとするはずです。

 

資本主義は実際のところ、一定程度貧困を認め得る思想です。資本主義の根幹にあるのが、〝働いた分だけ資本が手に入る〟という考え方ですから、当然、働かない者は貧困で仕方がない、ということになるわけです。

 

 

その資本主義の立ち位置から言えば、本来政府が行うべき貧困など格差の是正は、諸般の事情で労働力を提供できない者や、労働力を十分に提供しているにも関わらず対価が得られない者に対して行われるべきです。これらの人は、資本主義の生み出してしまった決定的な矛盾であって、是正を必要とする〝例外〟だからです。

 

諸般の事情で労働力を提供できない者というのは、主には障害者や若者、高齢者を意味します。この場合、生活保護制度などで所得の差を埋める必要があります。

 

労働力を十分に提供しているにも関わらず対価が得られない者というのは、主にはいわゆるブラック企業に勤めているような場合を言います。この場合は、所得の格差を生活保護などによって埋めるよりも、労働環境を適正化する方が効果的でしょう。

 

 

既にお気付きの方もいるでしょうが、実際に日本社会が包含している資本主義の矛盾には他の人々も入ります。

 

労働しない人々です。

 

本来であれば彼らは、資本主義の制度の中で切り捨てられるべきですが、実際そうもいきません。現在がそうであるように、生活保護などを受給して生活している潜在労働者がいます。

 

残念ながら仕事の枠が国民全員の分あるわけではないですから、失業者が出てしまうのは仕方がないことです。

 

しかし実際のところ、日本社会が抱える一番の矛盾とは、失業者が生活保護制度によって、不当な扱いを受ける労働者よりも良い環境で生活しているということです。

 

 

生活保護のあり方

生活保護受給者がパチンコ通い……「娯楽は誰にでも必要だと」と仰る方もいますが、それは違うと思います。

 

生活保護がなぜ支給されるか。それはこれが理由です。

 

第25条  すべて国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する。
2.国は、すべての生活部面について、社会福祉社会保障及び公衆衛生の向上及び増進に努めなければならない。

 

つまり生活保護は、健康で文化的な最低限度の生活を営むために支給される者です。果たしてパチンコが最低限度の生活を営むのに必要であるかはわざわざ問うべくもあらぬ問いでしょう。

 

私は生活保護を現物支給に切り替え、原則として更新不可能の期限付きとすることが、これからのあるべき生活保護なのだと思います。

 

更新不可能とするのは、就業のための努力を怠らせぬためです。精一杯就活しているが働けない、そう認められた場合に限り、更新を可能とするべきだと思います

 

(国営工場設置による失業者救済についても考えがありますが、それは今後ご紹介したいと思います)

 

 

子どもの貧困の止め方

子どもの貧困はさらにタチが悪い。というのは、連鎖するという特殊な性質を持つためです。

 

少し考えればわかることで、貧困の環境に育った子どもは、中卒や高卒で止まってしまい、大卒や院卒まで行ける裕福な家庭の子どもとは、当然大きな賃金の差が生まれます。

 

そしてこれは繋がってしまう。

 

これについて私は、学校教育の無償化と学校外教育への支援を行うべきだろうと思います。

 

教育への出資はリターンが大きい、これはよく言われることです。

 

貧困の連鎖を断ち切るためへの出資は、何が何でも行われなくてはならないことです。

 

(子どもをうかうか学校に行かせておけないほどの貧困は、上記通りの救済措置を取るべきでしょう)

 

 

 

日本は資本主義を標榜するわけですから、基本的には労働しない者は切り捨てられてしまいます。

 

それを救済するあらゆる施策は、あくまで憲法にある生存権を保障するという名目での〝例外〟であるとの認識が必要なのだと思います。