保守50連弾(2)「地方分権」
日本国における地方分権は、近年来問題になってきたことです。果たして海外の国々では、ここまで〝地方分権〟がここまで関心を持った問題として受け止められているのかは、疑問です。かなり日本らしい問題である、ということが言えるでしょう。
私は〝保守〟なわけですから、現状を保ち守りたいとする身分としては、「これ以上の地方分権は不要だ!」と叫びたいのですが、実際そうも言えません。
と言うのも、私が守りたいのは、明治以前、せいぜい幕末期までの伝統や文化であって、開国以後の欧米列強を模倣した発展は、例え司馬遼太郎が明治人をいくら賞賛しようとも、認められるものではありません。
日本国の歴史は、天皇家の歴史を見ても2600年以上(諸説あるところではありますが)。その中で、ここ200年くらい蛮国(が正しい表現かは分かりませんが)を模倣したとしても、その200年がピックアップされて日本の伝統のようにされるのはあってはならないことです。
と、いう視点で〝地方分権〟を見ると、見方は大きく変わるでしょう。
江戸幕府の統治下にあって、果たして〝地方分権〟はどうなっていたかと言えば、幕藩体制の中、幕府は各藩に広範に渡る権限を与えていたというのは、例えば歴史に疎かったとしても、だいたい想像のつく話でしょう。
このことがよくわかるのは、皮肉にも、江戸幕府の最期なのです。
江戸幕府は最期、朝廷に味方し、開国すべしとして結んだ長州藩・薩摩藩を中心とする諸藩にしてやられます。江戸幕府は、自らが打倒されるほど、権限が各藩に集まり得る状況を作り得たのです。
「天皇中心の中央集権国家を作るため」という解答が正解とされる問題が、中学の社会科には何度か出てきます。
「明治新政府が廃藩置県を行ったのはなぜか」
これだけじゃないかもしれないですが、このように、日本の歴史は〝天皇中心の中央集権国家〟と〝天皇から権限を与えられた政権による地方分権国家〟を交互に繰り返してきたと言えるでしょう。
では、一体どちらが概ね上手くいっていたか、と言いますと、私は後者──天皇から政権を与えられた地方分権国家という方が、日本の運営は上手くいっていたという気がするのです。
ではこうしてみてはどうでしょう?
地方に、かつての〝藩〟レベルの権限を与える。
何も道州制を採用しろとは言いません(反対するつもりもありませんが)。
だから、政府の仕事を少しずつ地方に移管していく。
民主主義は間接よりも直接が良いに決まっています。となれば、国政が大局を決するよりも、地方自治が重視される方が、民主主義国家としては、殊に日本国のあるべき形としては、よほど完うだろうと思われます。
(2016/6/10)
保守50連弾(1)「女性の社会進出」
このブログの第1号の記事は何にしよう。ひいては、このカテゴリ〝保守50連弾〟の第1号の記事は何にしようか、と考えた時、もちろん、いわゆる〝リベラル〟や〝革新〟と呼ばれる人たちと、最も意見が違うものにしよう、と。
あえて「憲法改正」というテーマを選ぶのも良かったんでしょうが、わざわざ180°意見が違うテーマを選ぶ必要もないだろう、と。
というわけで、わりかし左右の乖離が80〜140°くらいだろうと思われるこのテーマを選びました。
女性のことをお話しすると、どうにも〝フェミニスト〟なる人々が現れて、「女性に仕事を!」だとか、「女性に優しく!」と叫んでいきます。しかしそもそも、この〝フェミニスト〟の正体は何なんでしょうか?
大辞泉はこう語ります。
1 女性の社会的、政治的、経済的権利を男性と同等にし、女性の能力や役割の発展を目ざす主張および運動。女権拡張論。女性解放論。
2 女性尊重主義。
〝フェミニン〟自身が「女性らしさ」を表す言葉であることも、なんとなく想像がつく意味でしょう。
しかしこの〝フェミニズム〟なるものは、本当に〝男女同権主義〟を意味するものなのか。
ここで私が〝フェミニズム〟に感じることは2つです。
①フェミニズムは、男が女に〝与えた〟考えに過ぎない。
②フェミニズムは、女が男になろうとしているに過ぎない。
男が女に与えたフェミニズム
1つ目からお話ししますと、私が現代社会で感じることは、いかなる女性優遇制度も、実際それを発案し導入したのは概ね男性であり、男性が女性に〝下賜してやった〟程度の様子しかないのではない、とのことです。
欧州では殊にこれが顕著ですね。議会におけるクオータ制(議会において議席の一定割合を女性に与えると決めるもの)や、男性が女性に扉を開けて先に通すレディファーストでさえ、それはあくまで男性の女性に対する優しさに過ぎないのではないですか? これらを〝男女同権〟と言うのは、あまりに都合のいい話でしょう。
スポーツの話に置き換えるならば、今、強豪校と弱小校が試合していて、強豪校が弱小校にハンデをくれてやっている、という状態です。
こう思われるかもしれません。
「弱小校が強豪校とまともにやりあうにはハンデがあってしかるべしだ」
では尋ねたい。このハンデは、一体いつになったら無くなるのか。
永遠にこのハンデを甘んじて受ける〝ガラスの天井〟が本当に出来てしまう。そのハンデの点差が、永遠に天井になってしまう。
それならばこうしましょう。強豪校、弱小校と言う括り方をやめましょう。
これは実際には、団体戦に見えて個人戦なのです。強豪校の中の落ちこぼれと、弱小校の中の優秀な者、これが比較されたら、当然後者が評価されます。
つまり本当に〝フェミニズム〟が求めるべきなのは、〝男性は優秀で優遇されており、女性は劣っていて不遇な存在だ〟という意識を、一切、丸ごと、全部捨ててしまうことです。
そしてそれに伴うあらゆる事案は、女性が提案していかなくてはならないのです。
(もちろん、過去の女性の不遇にまで遡って現在の女性の優遇を訴えるようなことは、あってはなりません)
男になろうとする女
この問題において、認識を面倒臭くするのは〝性差〟です。
性差は、あります。脳構造の違いも明らかになりつつありますし、ホルモンバランスも違う、筋肉のつき方も違う。
それで男が女になろうもしても、女が男になろうとしても、本来的には無理があるのです。
(だからこそトランスジェンダーの人々の生き方は一層困難な者となるんでしょう)
しかし世の中はどうですか?
男性社会の中で働く女性が、女性社会の中で働く男性がフィーチャーされる。
女性が男性らしく働くことに美学が見出される。
男性が男性であることを、女性が女性であることを活かして働くことにためらいが見られる限り、それは〝フェミニズム〟が実現された社会とは言えないでしょう。
(当然、いかなる社会においても異性の目線・手助けは必要です。しかしそれは任意の人物が現れることを待つよりほかありません。彼ら・彼女らが現れた時に賞賛するのは、その人々の功績に応じて、です。)
(2016/6/9)